ちょっと、父と戦争のこと

平成5年に亡くなった父。
今年が23回の年忌にあたり、父と一緒に過ごした年月と亡くなってからの年月が同じになりました。
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戦後70年。
『永遠の0』地上波放送、玉音放送の原盤公開と…連日戦争に関する番組を目にし、戦争について改めて考える機会が増えています。

戦争を知らない世代ですが、父や祖母、義父の実体験を聴いた記憶がある私達世代も、次の世代に体験を伝えていくという仲介になるのではないか…と思うのでした。

1939年、父は仙台市で生まれました。
父を長男として、次男、三男、長女、次女 5人の子供たち。そして私の祖父母の7人家族だったそうです。(戦後、四男が誕生)
祖父は本の行商、祖母は着物の仕立や洗い張りをしていたそうです。
住まいは仙台市一番町だったと聞いています。

1945年夏。
7月9日の夜更け〜翌日10日にかけての仙台空襲。
6才になったばかりの父を筆頭に幼子、乳飲児を連れ、祖母は戦火の仙台市内を逃げたそうです。
途中父は家族からはぐれかけ、パニックになりながらも自分を呼ぶ声が聞こえ、家族の元に戻る事ができたと言っていました。

亡くなった方も多い中、一番町からよく家族全員逃げることができたと改めて思います。
ただ、親戚の多い米沢に避難する途中に女の子が亡くなり、栗子峠の途中に女の子を埋めたと聞いた記憶があります。後に掘り返しに行くも、探せなかったようです。


義父は予科練生として、台湾にあった海軍の航空隊に配属されていたそうです。
特別攻撃隊(特攻)を送り出していたことを聞きました。当時のことをあまり語らない義父ですが、少しだけ話してくれたことがありました。

特攻兵の先輩が出撃する前の晩
「お前、明日代わってくれるか?」と冗談交じりで言った言葉が今も忘れられないと…
何と答えていいか言葉が出て来なかったと…

その先輩は翌日予定通り出撃し、戻って来なかったそうです。

間もなく終戦を迎えましたが、義父が引き揚げ船に乗ったのは翌年のことでした。
引き揚げ船がどこに帰港したのかは忘れてしまいましたが、汽車で東京方面に移動する途中に広島の街も通ったそうです。
東京駅に着くと、駅では戦災孤児達の姿が多く、義父達に支給された弁当を狙っていたとのこと。

昨年秋に義父が関東に遊びに来た時、新丸ビル1Fのオープンカフェで丸の内駅舎を眺めながらしみじみと話してくれました。

義父は先月で満90才になりました。
今月のお盆帰省の際、また話を聴けたらと思います。
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by karen-7 | 2015-08-02 23:00